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キリスト教の罪悪についての話 [ポジティブ]

 






久しぶりのブログの更新である。
まぁ、、
ブログ固定の読者はいないので放置でも良いとも言えるが、
そうは言ってもブログを書くのも趣味のひとつ、
後は気晴らしやストレス解消とも言えるので、
書かないと落ち着かない日がある。

相変わらずパチスロでは負け続けである。
生活破綻者を絵に描いているような生活でもある。
少しでもプラスの時に現金に換える事が出来れば、
勝てる勝負も
最後は全て溶かしてしまう羽目に;;;;



今回は趣旨を変えてキリスト教の悪について書いてみようと思う。


catholic-2026191_640.png



去年の10月21日にモルモン教、
いわゆる末日聖徒イエス。キリスト教の洗礼を受けている。
何故?この宗教かと言うと、
今までに色々な宗教を見てきたが、
ひとりひとりの信者がエホバの証人や幸福の科学、
その他の宗教家より、
何となく誠意が感じられた。

実際、家の近くのエホバの証人や幸福の科学よりは、
人間的、キリスト教的にも優れているといえる。


それで良いとは言えないが、
もともとキリスト教の教え単純にはいかないし、
ひとつにまとまる話でもない。




キリスト教は、
イエス・キリストと言う名のもとに、

諸教会とも争いの種を持つほど殆ど教えが違う。

簡単に言えばキリスト教内でもライバル同士のようなもので、
隣近所の教会同士が簡単に教えを譲歩できるものでもない。


世界の宗教争いは、
ユダヤ教Vsイスラム教Vsキリスト教と言う構図であるが、
それは簡単な色分け区分でもある、
根はもっと深いところにある。


キリスト教はカトリック、プロテスタントと分かれ、
大概においてカトリックは、

神殿などは豪華とも言える。

ヨーロッパ辺りのキリスト教会の神殿なども見ても分かると思う。
逆にプロテスタントは質素が基本である。
あくまで基本は質素となっているが?


その事はひとえに聖書に書いてある、
偶像崇拝排除によるものである。
偶像崇拝とは、
仏像や石ころで
出来ている神殿などを、
拝む対象としないからである。
あくまでも神殿や仏像は単なる石や木である。


プロテスタント側から見れば、
十字架などを掲げるのも全てが偶像崇拝と看做すものである。

しかし、
一部のプロテスタントには、屋根の上に十字架を掲げる者や、
単に十字架や十字架にになっているキリストを、
神殿の真ん中に掲げる教会もある。

教会自体が厳かで威厳を保つように、
粧飾されている気配も漂い、決して質素な造りでもない。

深く言えば偶像崇拝そのもとも言える。


cross-2713353_640.jpg


プロテスタントからしてみればカトリックのローマ教皇は、
悪魔の化身とも言われ攻撃の対象となる。

カトリックと言えば祈りの時のロザリオと、
アヴェマリア信仰も有名である。
しかし有名な聖母マリアも聖書の中で触れているのは、
ホンの僅かであるのに、
不思議と聖母マリア信仰は世界中で見られる。

その事には諸々の説はあるが、
現在、聖書の中の福音書は4つである。
マタイ。マルコ。ルカ。ヨハネの4つである。
しかし外典には、トーマス、ペテロ、恋人?
マリア
数えたら100以上の福音書があると言われているが、
それらの福音書は聖書編集の時に外されている。



推測ではないが、
聖母マリアの福音書も編集前に数々有ったと考えられる。
聖書編集の時に聖母マリアの福音書は破棄された可能性もある。

それは何故か?
ひとつの手掛かりは恋人と言われるマリア、トーマスの外典の内容である。
現在の聖典の内容は階級層である。
必ず長である牧師や神父が存在する。
つまり同じ人間であるが、そこには平等と言うのがなく、
教会内の長が居てその下に信者が存在する。


長が信者を誘導する形の聖書編集内容である。

権力者の都合の良い聖書とも言える。

その他の外典は人々が輪になって、
自由に語り合える構造になっているので。
権力者が嫌いな構図とも言える。

それが聖典から外された理由と言える。

聖書は神の言葉と言えるが、
悪魔が書き加えた箇所もある事を聖書を読む意味で、
胸に刻む必要もある。

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聖書の最後の章に、
黙示録のハルマゲドンの戦いにある。
各州からからキリスト教の長が現れて、
我こそ神である!我らこそが真なる教え!と、
虚偽の申告する者が現れてくると言われる。

その事のきっかけで第三次戦争。
神と悪魔の戦い。
ハルマゲドンの戦い。

私はカトリックの肩を持つつもりはないが、
プロテスタントの教えが、
諸教会によっての違いが争いのもとにもなりえる事を、
杞憂する。

カトリックの場合はローマ教皇を頂点に、
縦横に繋がりがあり、
争いのもとにはなりえないが、
プロテスタントは先ほども書いたが、
殆ど個人事業みたいなので縦横の繋がりはない。


教えも殆どバラバラで、
最近までは悪徳金貸しや不動産やヤクザ等で、
生活していた人間などが少し聖書を勉強して、
如何にも聖職者、牧師らしく振舞い教会の設立に励む。

プロテスタントはカトリックより教会の建立が簡単であるし、
税金対策にもなりえる。

逆にカトリックはそんなに簡単にはいかない。

プロテスタントの教えにも問題もある。

先ほども書いたが十字架のあり方については、
絶対許さないと言う諸教会もあり、
暗黙の了解と言う諸教会もあり争いのネタは尽きない。

三位一体の考えもバラバラである。

三位一体とはキリスト教は「一神教」を唱えている。
神ーキリストー聖霊。

他の神を拝むことは許されない。

しかしイエス・キリストは聖書の中に書いてあるように、
神の聖霊によりマリアから生誕となっていて、
神の子と言う立場である。
一部のキリスト教会はこの事が気に召さない。

神と神の子では立場上、が違う。
何とか!
イエス・キリストをも神として祀り崇めたい。

しかし。
キリスト教は「一神教」である。

んむんむ、、、、、、と人々は考える。
そこで聖書には書いていないが、
神もキリストも聖霊も一緒と言う考え方が三位一体で、

糞も味噌も同じ?不謹慎です。反省。

と言うわけでイエス・キリストも神となった。
つまり簡単に考えればイエス・キリストは神の化身としたいが、
化身では名前に難がある。
三位一体の方が聞き心地が良い。


パチパチおめでとうございます。

目出度くイエス・キリストも神に昇格です。


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しかし、それらに反対するキリスト教の一派も多い。
逆に正統派からはオカルトと言われる一派でもある。

その中にエホバの証人・モルモン教なども存在する。
彼らにしては聖書に書いていない事には断固反対の立場。
イエス・
キリストは神の子であり、
人と神の間を受け持つ仲介としての存在。


そして人々が神に祈る時も、
「イエス・キリストの御名においてアーメン」と祈る。
つまり、
神と人との繋がりをイエス・キリストに、
身を委ねると言う事である。


この事からキリスト教の争いは、
益々激しくなるとも言える。

キリスト教信者の罪悪は悪魔狩りに続く事にもなる。
今度は時間が許せば、
キリスト教の暗黒時代16世紀の事を書いてみたい。


此処まで読んでくれてありがとう。







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